江戸時代から始まった「蚕種」と「上田紬」
江戸から明治にかけて日本の近代化を支えた蚕糸(さんし)業。
主には、カイコを飼育して卵をとる「蚕種(さんしゅ)」、繭を作らせる目的でカイコを育てる「養蚕(ようさん)」、繭から糸を製造する「製糸」の3種類に分けられます。
特に蚕種と製糸が盛んだった上田市は「蚕都(さんと)」と呼ばれ、その名は国内のみならず、海外にも知られていたと言われています。
今も蚕種業が行われているほか、歴史的な建造物や上田紬などを通じて、当時の歴史や文化に触れられる上田市。「お蚕さん」とともに発展してきたまちを巡りながら、いつもとはひと味違う上田の旅をご紹介します。
「蚕都上田」って、どういうこと?
蚕種が盛んだったという上塩尻地区の風景。屋根の上にのっている小さな屋根(越屋根)は蚕室の特徴で、換気のために設けられたもの
「うちも昔はお蚕さんをやっていて、桑の葉を採りに行ったもんだよ」「ここの2階に蚕室があって、ピークの時期は家の中で人が過ごす空間のほうが少なかったりしてね」なんて、上田市でお茶飲み話をしていると、たびたび教えてもらえる「お蚕さん」の話。市民なら何かしらのエピソードを耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。
上田市内にある上田市交流文化芸術センター・上田市立美術館「サントミューゼ」も「蚕都(さんと)」から名前がつけられました。「蚕都」とはもともと蚕糸業が盛んで、繁栄してきた都市を指す言葉です。
全国で見れば、上田市のほかにも、山形県鶴岡市や福島県伊達市、群馬県、埼玉県、富山県、京都府などいくつかの場所が該当します。
上田の歴史を表現する言葉として「蚕都」を組み入れたサントミューゼ
「都市が繁栄」というと少し分かりにくいかもしれませんが、たとえば上田市内を走る鉄道。今も私たちの暮らしを支えているしなの鉄道の「西上田駅」や「大屋駅」は、もともとカイコの繭や生糸を運ぶために要望して設置された駅です。
ほかにも今は商業施設や病院が建つ広い土地が、江戸や明治の頃にはカイコの餌になる桑畑だったり、生糸を紡ぐ製糸工場だったり。「お蚕さん」の歴史を知って改めて上田のまちを歩くと、景色の至るところにその片鱗を見ることができるのです。
なぜ上田で、お蚕さんだったのか
なぜ上田市で蚕種が盛んだったのか。詳細なことをお伝えするのは、専門の文献やこれから紹介をしていく各施設の資料に譲ろうと思いますが、上田市でお蚕さんが広まっていった背景には、気候と地形が関係していると言われています。
しなの鉄道 西上田駅からの景色。ここから見える平地にも、かつては桑畑が広がっていたのかもしれない
山に囲まれた盆地に位置する上田市は、「広大な土地が広がる」とは少し言い難い地形をしています。さらに、市の中央付近を流れる千曲川はかつてもっと荒くれ川で、氾濫を起こすことも多々ありました。そんな少し難解な土地でも育ちやすかったのが、カイコの餌になる桑です。
地面に対して垂直に根を張る桑の木は、川の氾濫で流されることなく、上流から運ばれてくる肥沃な土から養分を取り込んでスクスク成長。さらに山の間を吹き抜ける強い風によって葉が揺らされるので、カイコの天敵である虫が付きにくく、良い桑が育ったのです。
地域とともに発展してきた蚕糸業。その影響はカイコの飼育以外にも広がっていった
上田紬の流行は蚕種業の発展とともに
日本三大紬のひとつに数えられる「上田紬」は、蚕種に使われるカイコが羽化したあとの出柄繭を使ってつくられた織物です。
一時は「戦に強かった真田氏のように強くて丈夫な紬」として販売されていたこともあると言い、その品質は国内屈指のものだった様子が伺えます。
丈夫な紬ができたのも、すべては蚕種が盛んで紬糸の原材料になる真綿がたくさん手に入ったから。
最盛期には上田市内だけの製造では間に合わず、現在の篠ノ井あたりから佐久市まで、周辺の地域の協力も得ながら機織りが行われていました。
特徴とされる縦縞(上田縞)は当時もっとも粋と言われた柄のひとつで、人気を集めていたのだとか。
江戸時代、公家と武士しか身に付けられない「絹」でも、「真綿」にして「紬」にすれば一般市民が着こなせる。みんなのオシャレ着として需要は多く、販路は拡大していきました。
時代の変化とともに一度は姿を消した上田紬ですが、現在はいくつかの織元があり、着物を着てまち歩きを楽しんだり、オリジナルのコースターやストールなど機織りが体験できたり。
販売されている小物類は、老若男女を問わず選べるお土産物としても人気を集めています。
上田紬でまち歩きの体験を提供している呉服店「ゆたかや」。帯留に使う「真田紐」の組紐体験も人気
【上田紬ゆかりのスポット】
小岩井紬工房
上田紬 藤本 本店/塩田店
ゆたかや
古き良き風景を訪ね、上塩尻地区へ
北国街道に沿ってカイコを飼っていた特徴的な家並みが残る上塩尻地区(旧上塩尻村)は、先に紹介した「西上田駅」からアクセスできるエリアです。
上田市の中でも蚕種製造の一大産地として栄え、今もあちこちに当時の面影を残しています。
駅前にある「まゆ浪漫」の看板。神社仏閣まで訪ね歩けば、半日は軽くかかってしまいそうなボリューム感
寛文年間、長野県でも先駆け的に蚕種の製造販売を行った佐藤善左衛門。
佐藤家は代々蚕種の製造販売を手がけ、とくに藤本善右衛門(縄葛<つなね>)の代で目覚ましい発展を遂げました(総本家のみが一時期「藤本」姓を名乗りました)。
この佐藤一族の総本家があるのが上塩尻です。現在見ることができる範囲はごく一部、屋敷の外壁や門だけですが、そのスケール感や立派な様相は一見の価値あり。
またお屋敷の近くには、藤本の蚕種業について貴重な資料や映像データが残る「藤本蚕業歴史館」があります。
上田市の特徴的な気候や地形によって栄えてきた蚕種製造ですが、目覚ましい発展の裏には、この地域の多くの蚕種製造家の努力があったのです。
湿度管理が難しいカイコ飼育のために当時まだ一般になかった湿度計を開発したり、より強く丈夫なカイコの品種改良に取り組んだり。
歴史館では、そうした先人たちの知恵や工夫が詰まった貴重な道具の一部や当時の社会の様子を知れる写真や資料を見ることもできます。見学の際は事前に予約が必要ですが、ぜひ一度、足を運んでほしいお蚕さんスポットです。
【蚕都うえだゆかりのスポット】
藤本蚕業歴史館
上塩尻地区などあちこちで見られる猫瓦。カイコの天敵であるネズミの侵入を防ぐ意味がある。中の絵柄は何種類かあり、それぞれに願いが込められている
江戸時代に始まり、今なお息づくカイコと上田のまちの歴史。後編では明治に入って加速的に発展した製糸の歴史と、上田駅から大屋駅、旧丸子町をめぐる旅をご案内したいと思います。
レトロ可愛い写真スポットも多い後編は、カメラを持って散策もおすすめのコースです。