上田市と真田氏について
真田氏は上田市北東部にある真田地域を本拠地とする地方豪族でした。とくに真田昌幸・信之・信繁(幸村)父子は上田城を築き、第一次・第二次上田合戦において徳川の大軍を撃退し、さらに信繁が大坂の陣において活躍したことから、その知略や武功は現代まで語り継がれており、戦国時代の名将として人気を集めています。
上田市には真田氏の歴史を今に伝えるゆかりのスポットが数多く点在しています。真田氏の足跡を巡り、戦国ロマンを感じてみてはいかがでしょう。
真田家の人々について
真田幸隆(1513年~1574年)
真田氏の発祥については現在も謎が残されていますが、その存在が明らかになるのは、武田信玄の家臣として活躍し、武田二十四将にも数えられた幸隆から始まります。
幸隆は知略家として知られ、信玄も落とせなかった砥石城攻略や川中島の合戦など、信玄の信濃侵略に功をあげ、のちに真田の名を天下に馳せる礎を築きました。
真田昌幸(1547年~1611年)
真田幸隆の三男。信綱と昌輝、二人の兄が長篠の合戦で戦死したため、真田の家督を継ぐこととなった昌幸。武田家が滅びると織田家、北条家、徳川家と頼る大名を巧みにかえながら領地を守り、天正11年(1583年)に上田盆地のほぼ中央、千曲川とその分流を引いた尼ヶ淵を臨む崖上に上田城を築きました。
その後、上田城を舞台に二度の「上田合戦」で徳川の大群を撃退し、天下にその名を知らしめました。
しかし、関ヶ原の合戦で西軍についた昌幸と次男・信繫(幸村)は、その敗北により紀州(現・和歌山県)九度山へ配流となり、上田城も破却されてしまいます。蟄居生活を送ることになった昌幸は、慶長16年(1611年)、同地において病疫。65歳の生涯を終えました。
真田信之(1566年~1658年)
父・昌幸に代わり上田領主となったのは、関ヶ原の合戦で父弟と相分かれて東軍の徳川方へついた、長男の信之でした。
しかし、上田城の再建は許されなかったため、信之はその中心部を避け、三の丸の地に屋敷を構え藩政にあたりました。現在の上田高等学校がある場所です。(上田藩主居館跡)
真田信繫(幸村/1567年~1615年)と大坂の陣
さて、関ヶ原の合戦から14年。徳川家康は天下統一を確たるものとすべく、豊臣家の居である大坂城へ二度攻め入ります。いわゆる「大坂の陣」です。
慶長19年(1614年)、豊臣方から誘いを受けた信繫は、蟄居生活を送っていた九度山を脱出し、大坂城へ入場。冬の陣では城の東南隅に真田丸という出城を築き、攻めてきた徳川軍を撃退しました。
そして翌年、夏の陣では赤備えの真田軍を率いて徳川本陣へ突撃。家康をあと一歩のところまで追いつめたものの、最後は討ち死にしてしまいます。豊臣家は滅びてしまいましたが、敵からも一目置かれた信繫の活躍は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称され、戦国時代のヒーローとして後世にまで語り継がれるほどでした。
真田氏のその後
一方で、父・昌幸に代わり上田を治めていた信之は、元和8年(1622年)、江戸幕府より国替えを命じられ、松代(長野市)へ移封となりました。明歴4年(1658年)、93歳という高齢で没しましたが、晩年まで藩主の座にあり松代藩の基礎を固めました。その後も真田氏は代をかえ、明治維新まで松代藩主をつとめました。
厳しい戦国の世にありながら、信濃の地方豪族からついには大名にまでのぼりつめ、天下にその名をとどろかせた真田一族。幸隆にはじまり、昌幸、信之、信繫(幸村)、彼らの野望と生き様は、四百余年を経た今もなお絶大な人気を誇ります。
真田氏ゆかりの地一覧
上田城跡公園
真田昌幸が築城し、現在は公園として整備。櫓門や櫓、上田市立博物館など、見所が数多くあります。
上田城について詳細はこちら
上田城 城下町絵図アーカイブ
長谷寺
真田幸隆(昌幸の父・信繁の祖父)が建立した真田氏の菩提寺。
境内には幸隆夫妻と昌幸の墓があります。
真田氏館跡(御屋敷公園)
真田氏が上田城を築城する以前の居館跡。真田氏歴史館が併設されています。春はツツジの名所としても有名。
特集記事
信州上田おもてなし武将隊に、上田城を案内してもらいました。上田城の詳しい見所や歴史などが学べます。
モデルコース
上田城をはじめとした城下町を巡るコースと、真田氏発祥の地である真田エリアを巡るモデルコースを紹介します。